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2017/06/02

「世の中に、自分らしく生きる人を増やしたい」BOLBOPの創業ストーリー

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エコシステムデザインファームとして、地域や組織や個人の幸せな発展をサポートする株式会社BOLBOP。創業は2013年3月11日、東日本大震災からちょうど2年後にあたります。その日は共同創業者である茂木崇史が、人生のオーナーシップを自身の手に取り戻すと決めた日でもありました。

社会で生きるために、「世間が期待する道」をずっと歩んできた

“Bring Ownership of Life Back to Original Place.”

人生のオーナーシップを元の場所に戻す。BOLBOPの社名は、このフレーズの頭文字をとって名付けられました。「世の中に、自分らしく生きる人を増やしたい」との思いを込めて。

しかし、いったいどこからその思いは生まれたのでしょうか?

人生には、自分で選択している道のはずが、実は心から望んでいるのとは違う場所へ向かっているという事象が起こることがあります。BOLBOPの創業者のひとり、茂木もかつてそんな道を歩んでいたひとりでした。

そう、彼は長い間ずっと、自分の心の声に従って生きることができずにいたのです。

小学生の時から文武両道な優等生だった茂木は、親の大きな期待を受けて育ち、学校ではお山の大将を気取っていました。

ところが、私立中学への受験がきっかけとなって、同級生から疎外される経験をします。

茂木 「人と違う選択をしたというだけで、疎外される理不尽さを味わい、『周りと調和しなければ、社会では生き延びられない』という恐怖が常に付きまとうようになったんです」

思春期にその恐怖は過度のプレッシャーとなり、食事も喉が通らなくなるほどでした。

そんな彼が人生をサバイブするために選んだ道は、「世間が期待する道」という価値観に合わせて生きること。そこにいれば、誰にも文句を言われることなく生きていける……。

それ以降、有名私立校の武蔵中学・高校、東京大学経済学部、そしてマッキンゼーアンドカンパニーと、誰が見ても完璧なエリートコースを必死に歩みました。彼にとって、その道は自分の無防備な心を守ることができる、安心・安全を保障してくれるものだったのでしょう。

しかし一方で、大事に守られていた「本当の自分」は、社会的な成功を歩むことにどこか違和感を抱きつつも、じっとその様子を眺めていたのです。

茂木 「社会においては、こうあるべき――そうやって周りの期待に応えて生きてきたけれど、自分の気持ちをどこかにずっと置き去りにしていて。その両者のかい離は、社会人になってからも続きました」

その状況を大きく変えることができたのは、茂木が東日本大震災を通じて、「自分にとっての幸せな生き方とは何か?」という問いと逃げずに向き合い、自分の心に従って人生の選択をすることができたからです。

絶望からの「社会を変えたい」——
自分の声に従うと決めたときに見た光景とは

ガタガタガタガタッ。突然、轟音が響いたかと思うと、地面がぐらりと大きく揺れ動き、目の前のガラス張りの建物が今にも崩れそうな勢いで迫ってきた……。

2011年3月11日。仕事で東京・有楽町に来ていた茂木は、東京国際フォーラム前で被災しました。被災した瞬間は、正直現実味がなくぼんやりとした心地でした。

茂木 「帰宅してから急に現実に引き戻されました。津波やフクシマの原子力発電所事故のニュースを見て、『本当に世界って終わっちゃうのかな』と絶望感がこみ上げてきたのを今でも覚えています」

そのとき茂木は31歳。結婚し、子どもが1歳の誕生日を迎えたばかり。原子力発電の問題等これまで知らずにいた社会の構図が次々と露呈するなか、この子が大人になったときに、親としてどんな社会を残せるのだろうと、大きく心を揺さぶられました。

茂木 「今まで見ていなかった情報がガーッとあふれて、すごくもやもやする時間を過ごしました。仕事が本当にどうでもよくなっちゃって。これから社会はどうなるんだろうってことをぐるぐるぐるぐる考えていた記憶しかないですね」

社会を変えたい――。

そんな思いが高まり、未来の社会のために何ができるかを考える場を求め、茂木は震災直後の5月、公益財団法人国際文化会館が主催する新渡戸国際塾の扉を叩きます。

新渡戸国際塾は、業界や職種を超えて「人生を通して世の中に貢献したい」と考えている若手リーダーを育てるプログラム。

その塾のスタディツアーで訪れた被災地の被害状況を見て、会社を辞め復興支援の仕事をする決意を固めました。

茂木 「はじめは、会社にいながら被災地とどう関わったらいいのかって考えていたけど、現地に行ってみたらそんな気持ちは吹っ飛びました。

何もない地平に、家の柱だけがぽつんと残っているような光景が広がっていたんですよ。まるで戦後の焼け野原みたいな……。

これが、これまでの経済の仕組みや社会の流れの一つの結果で生まれた光景だと思ったら、会社のなかにいてそのあり方を変えるのは無理だと思っちゃったんですよね」

資本主義の枠組みのなかにいると、経済活動を優先するあまり、社会全体にとっての公益性が見えにくくなってしまうことがあります。

そして大事な決定権を握るのはいつも一部の権力者で、何かあったとき犠牲になるのは、何も知らされていない人たちです。

これまでの人生では、「社会人として、そういう矛盾も受け入れながら働くべき」と、社会との調和を図りながら生きてきた茂木。

しかし、震災によって「本当の自分」の声が大きく聞こえるようになり、矛盾から目を逸らせなくなっていました。

茂木 「なんかもう、そういう社会のしがらみは、一回ぜんぶ手放して自分の心と頭を使ってゼロから考えよう、という気持ちが沸き上がってきて。心のままに被災地に飛び込む決意をしました」

一歩踏み出した先に待っていたのは、抱えきれない大きな孤独

とはいえ、茂木の心に怖れがなかったというわけではありません。むしろ内心は不安と怖れに満ち満ちていました。

茂木 「自分は決して先頭に立って人を引っ張っていくようなタイプじゃないし、ひとりで行ったところで、何もできないかもしれないって不安でいっぱいでした。そんなとき、勇気をくれたのがBOLBOPの共同創業者の酒井穣が書いた本だったんです」

リーダーシップに一番必要なのは「勇気」である。自分の信念に正直であるために、どれだけ勇気を使えるのか。人がついてくるのは、その結果にすぎない――。酒井の本には、そんな趣旨が綴られていました。

茂木 「怖い。でもここで自分に正直になって一歩踏み出すことに“勇気”を使ってみようと、本を読んで背中を押されたんですよね」

そうして彼は、半年ほどの準備期間を経て2012年1月に会社を辞めて独立。社会への理想を掲げて気仙沼で復興支援をはじめました。

茂木が新渡戸国際塾に通い、仲間と議論を重ねるなかでたどり着いた理想的な社会モデルがあります。それは「自律分散型の社会」です。

これまでの中央集権的な社会構造では、自分の意志とは裏腹に、嫌なものでも受け入れなくては生活が成り立ちませんでした。震災において、その象徴的存在だったのが原発事故です。

茂木 「だったら、大きなシステムにできるかぎり依存せず、地域で食やエネルギーの自給を可能にすれば、それぞれが自立して幸せになれる社会へと変えることができる。当時はそう仮説を立てていました」

独立してからというもの、茂木は東京で生活費を稼いでは、被災地、とくに気仙沼へ通うという働き方をしていました。初年度に現地に足を運んだ回数は、年間50回ほど。会社員時代に培った事業コンサルタントとしてのキャリアを生かし、被災地企業の再生支援などに関わりました。

はじめのうちは、現地の人たちがエネルギッシュに生き抜く姿に触れては心を動かされる毎日を過ごし、大変ながらも仕事に充実感を覚えていました。ところが時間が経つにつれ、掲げていた理想と現実の大きなギャップを突きつけられることになります。

ある日のこと。地域の人と被災地の未来について語り合っていた彼は「なんかすげー上から目線だよね」「経験していないお前に何がわかるんだよ」と厳しい言葉を投げつけられました。

茂木 「今思うと僕は、『被災地はこうすべきだ』と“べき論”を振りかざしちゃっていました。社会のためにというのは、目の前にいる“その人のために”ではなかったんです。すごくそれが伝わっていたんだろうなと思います」

しかし当時はその言葉に打ちのめされ、いつまで経ってもよそ者としてしか受け入れてもらえないと強く孤独感を募らせていきました。

茂木 「こっちだってなんとかしようって一生懸命やってるのに、やっぱり立場が違うと分かってもらえないんだなって。すごく苦しかったです。あまりの報われなさに、自分は何のためにやってるんだろうと」

その頃は仕事自体も、関係者の利害やしがらみで望むようには進んでいませんでした。孤軍奮闘して空回りするだけで、結局ひとりでは何もできない。理解者さえいない。せめて自分と同じ目線で語り合える仲間がほしい……。

それは独立してからちょうど1年が経とうとする頃のできごとでした。

大きな社会のシステムを変えるのではなく、小さな自分の幸せから満たしていく

気仙沼での活動に行き詰まりを感じながらも、どうすることもできず苦しんでいた茂木を救ったのはBOLBOP共同創業者の酒井でした。

茂木 「僕ね、酒井の前で泣いちゃったんですよ。東京に戻ったときに表参道で参加した飲み会で。マジで辛いんですって大号泣(笑)」

酒井は何ができるかを寄り添って一緒に考えてくれました。茂木はもう一度自分の幸せのために、どうありたいかを自らに問いかけました。

社会と調和しながら安全に生きる人生と決別してこの道を選んだのは、自分らしく生きるため、そして子どもによりよい未来を残すため――。そもそも社会を変えたいという思いは、その延長線上にあったのです。

茂木 「そのときにふと、“社会”って実態がない言葉だなって思ったんです。聞こえはいいけど、実は何を指してるかってすごくあいまい。自分を必要としてくれる人とか、信じてくれる人のためになるだけでいいのに」

そうだ、大きな社会システムの話ではなく、顔が見える関係のなかで、一人ひとりが自分らしく生きられる仕組みづくりの仕事をしていこう。自分の幸せと誰かの幸せが、重なるような働き方をしていこう。

そうして茂木は、自分に寄り添い同じ目線に立ってくれた酒井とともにBOLBOPを設立することにしたのです。もう一度原点に戻って、自分の人生にとって大切なものを取り戻すために。

BOLBOP設立にあたって、気仙沼でも味方になってくれた人たちが多くいました。たとえば、気仙沼でカキの養殖業を営む盛屋水産のご夫婦。初期の頃から“よそ者”である茂木を受け入れ、子どものようにずっと見守ってくれた恩人でした。

茂木 「ご夫婦は本当に懐が深くて。被災した当事者としての悩みをすべて受け止めたうえで、生き生きとしたエネルギーを持って生活していました。ふたりに恩返ししたいと思ったんです」

ご夫婦はその頃、「学生ボランティアが帰ってくる場所を作りたい」と民宿をはじめようとしているところでした。しかし宿泊業は未経験。仕事としてやっていけるのかと不安を抱えていたのです。そこで茂木は、東京から新しく人を呼んで民宿で研修合宿をする企画を思いつきます。

茂木 「アイデアで貢献するのではなく、現地にリアルに人を連れてくる、ものを誰かに売る。商いとして目に見える形で貢献したいと思いました。これがBOLBOPの初仕事でした」

結果、東京から30名の参加者が気仙沼を訪れて企画は大成功。普段まったく会わない人々が交流し、たくさんの笑顔とつながりが生まれました。そしてなにより嬉しいことに、現地の人にはとても喜ばれ、BOLBOPの存在を心強く感じてもらえたのでした。

もうひとつ、予想外のできごとが起こりました。合宿が終わる頃には、茂木の周りに多くの仲間が増えていたのです。この合宿事業を通じて異なるバックグラウンドを持つ人たちが、同じ視点を分かちあい共に時間を過ごし、絆を深めていたのです。

茂木はその光景を見て、これまでの苦しみから救われる思いでした。

茂木 「本当はこう生きたいって思いと真正面から向き合って行動したとき、ひとりじゃなくなったんですよね。仲間とたくさんの笑顔を見て、一番喜んでいたのは自分です。はじめてBOLBOPで手がけた仕事の最初のお客さんは、実は僕自身でした」

「自分らしく生きる」——それはどこにも正解のない道です。孤独を受け入れ向き合い続けることでしかこの道は歩めません。そして、前に進もうとする誰もがこの孤独を抱えます。

茂木は自身と向き合うなかで弱さや限界を知り、酒井や周りの人たちに支えてもらったときに、心の底から生きる喜びを味わいました。それは決して、社会に合わせて生きていた頃には感じることのなかった感情でした。

この経験があったからこそ、BOLBOPは、自分らしく生きようとチャレンジする人が勇気を持って一歩を踏み出せる場や機会をつくり、共に支えあいながら歩いていきたいと考えています。

なぜなら自分らしく生き生きと人生を歩む人が増えれば、大きな社会システムを変えずとも、やがて未来が開けてくる。ひとりの小さな一歩の積み重ねが、やがて大きな変化につながることがある。——そう信じているから。BOLBOPの社名には、そんな思いが込められているのです。

Written by PR Table

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